【約100年前の日本】もう見ることができない、大正初期の超人的な仕事ほか
どうも服部です。歴史の映像を紐解いていくシリーズ記事、今回は2016年12月に公開した拙著「【関東大震災前】約100年前の東京の繁華街や子供たちの遊びを捉えた超鮮明映像」で取り上げた映像のオリジナルと思われるものを見つけたので、紹介していきたいと思います。
全体で4分6秒の映像のうち、最初の1分10秒ほどが1913年(大正2年)撮影で、残りは1915年撮影のものとなっています。

こちらがタイトル画像。米国・ニューヨークのポスト・フィルム・カンパニーという会社による制作とのこと。
ちなみに、1915年(大正4年)という時代は、前年に第一次世界大戦が勃発し(1918年終結)、歴史の授業でも習う「二十一カ条の要求」を日本が中国に提示した年でもありました。

世界初の音声付き映画が実用化されたのは、1927年(昭和2年)のことなので、無声・無音です。代わりに字幕での説明が入ります。ここでは「日本の人口は7千万人。北端はカナダ東海岸の都市、ハリファックスと同程度の緯度にあり、南端はキューバと同程度である」と説明されています(南樺太と台湾が日本領土だったため)。

日本の地理紹介です。本州は「ニッポン・アイランド」、北海道は「エゾ・アイランド」という表記になっています。また、東京は「TOKIO」となっていますが、気象予報士の饒村曜氏の調べによると、
”気象報告で、「TOKEI」という記述は、明治16年8月分までの気象報告まで続き、翌9月分からは、東京が「TOKIO」となっています。(中略)気象報告で、東京を「TOKYO」と記すようになったのは大正2年になってから”
とのことで、日本のお役所による「東京」の英訳が、1913年(大正2年)まで「TOKIO」だったためのようです。

静止画ではない映像は、1:57から始まります。冒頭の映像にも含まれている浅草六区の様子ですが、以前取り上げた部分なのでスキップします。

「日本の子供たちは、早い段階から護身術である剣術を習います」との字幕に続き、映像の3:08からは冒頭の映像に未収録の剣術シーンが収められています。

結構激しくやりあっています。でも、剣術よりもカメラが気になる人も多いようで……。

痛くないんだよというデモンストレーションなのでしょうか、面や胴を竹刀で叩いています。ちょっとかわいそう。

お寺や大仏など、日本の宗教についての紹介を挟みますがここでは割愛して、映像の5:33ごろに飛びます。こちらは何をしているかというと、「【約100年前の横浜ほか】人々のリアルな生活や表情を捉えた超貴重映像」という記事で取り上げた映像にも収められていた、長崎の「石炭揚げ」の模様です。

「石炭揚げ」とは、当時の船の主たる燃料である石炭をバケツリレー式に次々に積み込んでいくことで、字幕によると1時間に100トンもの石炭を積んでいたのだとか。
書籍「長崎異人街誌」には、“長崎港の石炭揚げは、他に類を見ない積み込み方法で、迅速且つ整然と約定の時点までには必ず終了するというのが、その特徴である。これは、わが国はおろか国際的に有名であった。”と紹介されています。他の仕事に比べ賃金も割高だったとか。

しかしながら、1910年ごろから船の燃料は石炭から石油(重油)へと移行していき、やがてこの芸術的なまでの「石炭揚げ」は、需要がなくなっていくのでした。

所変わって、横浜の人力車乗り場だそうです。ずらりと空車が並ぶ光景は、現在のタクシー乗り場に通ずるところがあります。
字幕によると「運賃は安く、10米セントで1時間は乗れる」とあります。「Inflation Calculator」というインフレ率を計るサイトで見ると、1915年と2016年では24倍ほどインフレになっているので、10セントは現在の2ドル40セントほど。単純計算はできないでしょうが、目安として現代価値で240円ほど(1ドル100円換算)ということになるでしょうか。それは安い。

続いては、横浜公園の様子です。現在プロ野球・DeNAの本拠地である横浜スタジアムがある公園で、1876年(明治9年)9月に開園、日本人にも開放されていた西洋式公園としては、日本最古なのだそう。

こちらも同公園の様子。子沢山の時代だけに、子供密度が高いですね。

同じく横浜公園からは、桜の開花時期の様子も収められています。母親の手をつなぎ、よちよち歩きをする幼子の姿は、いつの時代でも愛らしいものです。

映像の13:42ごろからは、女性の髪結いのシーンが始まります。その前に入る字幕には、「日本では、女性の髪型を見れば、既婚が独身かがすぐ分かります」とあります。

髪結いが終わると、女性はリクエストに応えてか、グルっと1周回ってくれました。ただ、既婚・独身の髪型の違いは説明されていないので、この映像を見た当時の人たちはモヤモヤしたことでしょう。


映像の10:06ごろからは、日本の学校教育についての紹介が始まります。「この日出ずる国の子供たちは、6歳になると軍隊教育を施されます」と行進練習を映しています。確かに「義務教育」は、兵隊になるための最低限の教育としての意味合いがあったようですが……。


前屈をしてから背中を逸らすという、ラジオ体操にある動作が入ります。が、日本でラジオ体操が始まるのは1928年(昭和3年)8月なので、それ以前のことでした。


こちらの2つの字幕では、「小学3年生を超えると毎日1時間、英語を学ばされる」、「学校で7時間過ごした後は、家に帰って6時までは翌日の予習、夕食を食べたら就寝する10時までまた勉強。この勤勉さが若い日本の強みである」と、日本人の猛烈勉強ぶりが書かれています。
しかし、文部科学省の「学制百年史」によると、この時代の英語教育は現在の中学校にあたる高等小学校での選択科目にはあったそうですが、字幕にあるように小学3年生ではないので、もしかするとどこかしらの私立学校の状況を取り上げているのかもしれません。

ハードすぎる勉強時間について知らされたためか、子供たちの表情がどんより曇っているように取れてしまいます。

映像の13:42ごろからは、「日本の沿岸沿いにて」という字幕の紹介通り、場所は不明ですが沿岸が捉えられます。ぽつぽつと家が見えるのは、漁村でしょうか。帰国する船からの撮影なんですかね。これにて映像は終了します。
引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。
(服部淳@編集ライター、脚本家)
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※参考文献
・長崎異人街誌/浜崎国男(葦書房 1978)