涙を流しながら殴り…「ハマの番長」三浦大輔のスタート【ベテランたちのターニングポイント】

2016/2/10 10:00 オグマナオト オグマナオト



打てるもんなら打ってみろ!
三浦大輔著/ロングセラーズ



「自分の野球人生は失敗からのスタートだった」

自著『逆境での闘い方』の冒頭で、“ハマの番長”こと三浦大輔は迷うことなくこう綴る。

中学時代に目立った実績はなく、高校も最高成績は県大会決勝戦敗退。そんな無名高校生がドラフト6位で横浜大洋に指名されたのが1991年のこと。あれから25年以上がたち、親会社が3回変わっても、横浜のエースは変わらず三浦大輔だ。

42歳の今年、「球界最年長投手」として新シーズンを迎える。MLBでプレーを続けるイチローを除けば、同世代で誰よりも長くユニフォームを着ることになった男は、実は高校時代に一度、野球を諦めかけたことがある。だからこその「失敗からのスタート」だった。


■チームメイトたちの“涙の『フクロ』”

「名門ではなく、弱いチームに入って自分で強くしてやろう」

そんな決意で公立校の門を叩き、1年夏からマウンドに登った三浦。だが、ある日ふと、練習漬けの毎日に嫌気がさし、部活をサボってしまう。はじめは1日だけのつもりが、次の日もまた次の日もと続き、気がつけば部活だけでなく学校までもサボタージュ。戻る機会を逸した三浦は、遂に高校までも辞めようと決意してしまう。

それを翻すことができたのは監督の愛のムチであり、「三浦がいたら甲子園に行ける」「三浦が帰ってきたら勝てます」というチームメイトたちの力だった。彼らは涙を流しながら三浦を殴り、野球部への復帰を促したという。

「同級生の『フクロ』がなかったら、俺は野球をやめていたかもしれない」
(三浦大輔著『打てるもんなら打ってみろ!』より)

コテコテの青春ドラマのような現実。だからこそ、三浦大輔の歩む道はドラマになるのだ。


■俺は横浜の三浦だから

横浜一筋25年目を迎えた三浦。だが、横浜から移籍しかけたこともあった。2008年オフ、阪神と契約寸前までにいったFA交渉だ。

奈良県出身であり、阪神ファンの父に育てられた三浦にとって、縦縞のユニフォームに袖を通すことはある意味では夢の結実だった。

阪神が三浦に提示した年俸は横浜の約2倍。加えてその年、阪神は2位で横浜は最下位。それどころか、直近7年間で5度目の最下位だった。

少年時代からの夢。高待遇。チーム状況。何をとっても、阪神行きを阻害するものはなかった。ところが、三浦大輔は横浜を選んだ。その決断にあったのは、高校入学時と同じ思いだった。

「そうだ、俺は弱いチームを強くして、みんなで優勝を味わいたいんだ」
(『逆境での闘い方』より)

残念ながら、三浦が残留しても尚、横浜は最下位が指定席だ。まだ優勝の美酒は味わえていない。三浦自身の成績を見ても、昨年終了時点で通算172勝。横浜でなければもっと勝てた、200勝にも届いたのでは? とよく話題になる。だが、三浦はその都度、こう切り返すという。

「違う球団ならもっと勝てたとかはない。俺は横浜の三浦だから」

そして、もうひとつ。自著のなかで三浦は、娘のこんな言葉も紹介している。

「パパ、過去は変えられないけど、未来は変えられるんだよ」

(オグマナオト)