宮崎駿と庵野秀明、アニメ界巨匠2人が選んだ松任谷由実(荒井由実)の50周年ベストアルバム『ユーミン万歳』にも収録されたあの2曲とは?

2022/10/7 17:00 龍女 龍女

宮崎駿が選んだ『ひこうき雲』は1973年の11月20日に発売された同名のアルバムでもあるタイトル曲である。

1972年7月5日のデビュー曲『返事はいらない』に続く2枚目『きっと言える』のB面として、1973年11月5日にアルバムからの先行シングルとして発売された。
一応知らない世代に説明すると、レコードは片面の円盤の溝に針を通し再生される。
裏表両方とも円盤の溝に音を記録出来る。
そこでシングル盤の表側はレコード会社が特に推したい1曲をA面とする。
裏側に少し挑戦的な内容の曲をB面に選ぶ傾向があった。

当時、宮崎駿は東映動画を辞め二つのアニメスタジオを渡り歩きながら、忙しい日々を過ごしていた。
実家は戦時中に飛行機の部品を製造していた会社だ。
その影響で飛行機は大好きだったが複雑な思いも抱えていたようだ。
飛行機は戦闘機として作られた。
戦闘機に乗った若者達は特攻隊として死んでいった。
飛行機のエンジンと気象条件によって生み出されるひこうき雲に若者の死を結びつけた『ひこうき雲』の歌詞は強く胸に響いたであろう。


さて、少し長くなるが遡って『ひこうき雲』が誕生するまでを紹介しよう。
それは「ユーミン」という愛称がきっかけになったかもしれない。
ユーミンとは、彼女が追っかけていたグループ・サウンズのバンド
ザ・フィンガーズ(1962~1969)のベイシスト
シー・ユー・チェン(1947年生れ)が名付けた。
中華民国時代の北京で豪商の息子に生れた彼は5歳で日本に渡り、上智大学在学中にザ・フィンガーズに途中加入している。

中学生の荒井由実は追っかけの中でも目立っていた。
友人のツテで米軍基地で購入した新しい洋楽のLP(アルバムを収録する大きさのレコード)をバンドのメンバーに渡して聴かせるような変わった行動をしていた。
あるとき自作を入れたデモテープを渡している。
シー・ユー・チェンは荒井由実に将来どうなりたいのかと尋ねると
「有名になりたい」
「歌手にならないの?」
「作曲家志望です」
のようなやりとりがあったようだ。
シー・ユー・チェンは、当時流行っていた「ムーミン」と下の名前「由実」と
中国語の「有名」(ピンインにするとyǒumíng)をかけた呼び方を思いついた。
今でも彼女は「ユーミン」と呼ばれるのを嬉々として受け入れている。
それは好きな人との良い思い出があるからだ。

さて、ザ・フィンガーズ解散後のシー・ユー・チェンは、初のロック・ミュージカル
『ヘア』 のオーディションを受けアンサンブルの一人になった。
追っかけの荒井由実はその会場にいたらしい。
彼女は年齢的にオーディションは受けられない。
主役であるザ・タイガースを脱退してソロになった
加橋かつみ(1948年2月4日 生れ)にデモテープが渡る。
加橋はそれを聴いたところ、
「これはスゴい!」
と、やがてデモテープはザ・タイガースやザ・フィンガーズに曲を書いた作曲家
村井邦彦(1945年3月4日 生れ)の元にも届く。
村井邦彦は、1969年に音楽出版社アルファ・ミュージックを設立していた。
荒井由実は作曲家として専属契約を結んだ。
わずか14歳の天才少女の誕生であった。

荒井由実の作曲家デビューは加橋かつみに提供した
『愛は突然に…』(1971年5月3日)である。

元々『ひこうき雲』雪村いずみ(1937年3月20日生れ)に提供された。
録音したものの、村井邦彦は疑問を持った。
荒井由実が大きく影響を受けた音楽がある。
キリスト教系の立教女学院高校在学中に聴いた
構内にある教会で演奏されるパイプオルガンの音色。
それによく似たハモンドオルガンが奏でる
イギリスのバンドのプロコム・ハルムの曲『青い影』を融合させた切ないサウンド。
作詞は中学時代の同級生の死をモチーフに書かれた。
そうしたモノが一体となってできあがった『ひこうき雲』はすばらしい。
雪村いずみの歌も素晴らしい。
美空ひばり・江利チエミと並び、3人娘と称された日本屈指の歌唱力の持ち主だ。
ところが、歌唱力のある人には、唯一の欠点がある。
聞き手は歌のうまさに感動して、実は歌詞の意味が届きにくい。

そこで、村井邦彦は荒井由実本人が歌うことを提案する。
1971年に発売されたキャロル・キングの『つづれおり』が大ヒット中だ。
日本でもシンガー・ソングライターが売れると直感した。


(キャロル・キングのつづれおりのジャケットから引用 イラストby龍女)

荒井由実は実家の呉服店の影響もあって染色にも興味があった。
多摩美術大学の日本画専攻の学生としても忙しかった時期である。

アルバム『ひこうき雲』はすぐに大ヒットというわけにはいかなった。
2枚目の『MISSLIM』(1974年10月5日)で徐々に売り上げは上がる。
遂に3枚目の『COBALT HOUR』(1975年6月20日)は大ヒットした。
第一次ブームが起こるが、それはまた別の話である。


(荒井由実 イラストby龍女)


さて、この『ひこうき雲』が使われた映画『風立ちぬ』は特攻隊の若者が乗っていた飛行機零戦の設計者堀越二郎(1903~1982)が主人公である。

しかし、実際の堀越二郎を描いたわけではない。
堀辰雄の名作文学『風立ちぬ』の物語を取り込んだ。
表現者の業を描いた大人のアニメに仕上がっている。
その声を担当したのは、声優として素人の映画監督庵野秀明であった。
宮崎駿以外で、まさしく表現者の業を体現している男なので起用されたのだろう。

庵野秀明は完成披露会で直接松任谷由実に会った時のこと。
制作中の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の最後の挿入歌にどうしても使いたい曲があった。
その場で、本人の許諾を得ることになった。

その曲とは『VOYAGER〜日付のない墓標』である。
どうして、選んだのだろう?

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