「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代を散歩しているような気分になれる約60年前の映像

2016/12/23 23:21 服部淳 服部淳


どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回はMichael Roggeさんという日本在住歴のあるオランダ人の方がYouTubeに投稿している「From Yokohama to Tokyo in 1958 横浜から東京まで」とタイトル付けされている映像を取り上げました。1958年は昭和33年。東京タワー完成の年であり、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代設定と同年でもあります。
※動画はページ下部にあります。


まずは駅のホームにやってくる電車を捉えます。行先表示は「横浜」となっています。相鉄線でしょうか。


見えにくいですが、背後に富士山、そして手前の住宅はMichael Roggeさんいわく、米軍住宅とのこと。


ここからは電車の車窓からの撮影が続きます。「よこはま」の駅名標が映っています。


途中の駅を通過していき、クハ55でしょうか、国鉄(現・JR)の電車とすれ違います。横浜を出てきていることから、すれ違ったのは国電・京浜東北線で、撮影者が乗っているのが東海道線なのかと考えられます。


近年見ることがだいぶ少なくなってきた、昔ながらの団地が見えます。


電車での移動は終わり、前回記事に引き続き浅草・仲見世です。前回記事では関東大震災以前の仲見世でしたが、震災で全焼。震災の2年後である1925年(大正14年)に再建されたものは、東京大空襲で被災しましたが、建物の外側は焼け残ったため、それを基に改築したのだそうです(仲見世HPより)。


こちらも前回記事に登場の浅草寺・本堂。ただし、国宝だった本堂は、東京大空襲で全焼し、再建されています。完成は1958年(昭和33年)10月15日なので、この映像はその直後の頃ということでしょうか。ちなみに、音声をよく聞いてみると同じセリフが何度かリピートされていることから、映像と同時に収録されたものではないのが分かります。






上部のほうまで映らず全貌は見えませんが、同じく浅草にあった「国際劇場」のようです。3枚目の画像には「松竹歌劇団」ののぼりが確認できます。発足当時の1930年代には、宝塚歌劇団と人気を争うほどだったのだそう。やがて人気は陰り、劇場は1982年(昭和57年)をもって閉鎖しています。

Asakusa International Theater 1937 SKD.JPG
By 不明 - 柏書房「写真集 失われた帝都 東京―大正・昭和の街と住い」より。, パブリック・ドメイン, Link


こちらが「国際劇場」の全貌です。横文字が右書きなので、おそらく戦前のもの。


「仁丹歯磨」と側面に広告が掲載されている建物は、


1954年(昭和29年)に建てられた「仁丹塔」。関東大震災で崩壊し、後に破壊された「十二階」の愛称で呼ばれた「凌雲閣」を模して建てられたのだそうですが、「十二階」は最上階が展望台になっていたのに対して「仁丹塔」は登ることはできませんでした。1986年(昭和61年)6月に解体されています。




映画館や劇場が立ち並ぶ、東京屈指の繁華街だった「浅草六区」です。


これまた浅草の「ちん横通商店街」のゲート。1995年(平成7年)に「浅草中央通り商店街」と名称を変更しています。


上野広小路行きのボンネットバス。趣があるデザインですね。


そのボンネットバスを抜いていく都電は、ピンポイントにピントがあっていて、ミニチュア模型のようにも見えます。


手前にある瓦屋根の建物は、現在とは屋根の色が異なりますが、雷門の隣にある雷おこしの常盤堂本店のようです。雷門は、現・パナソニック創業者の松下幸之助が1960年(昭和35年)に寄進したもので、撮影時にはありません。背後に見える高い建物は、浅草松屋でしょうか。


屋根の色は変わったようですが、今もある東京メトロ浅草駅の地下鉄入り口。屋根の上の「地下鉄」という矢印がかわいい。


音声に区切りはありませんが、ここから銀座に移ります。2010年に解体された第4期の歌舞伎座です。


続いては「MONTANA」という三原橋交差点のパチンコ屋さんです。銀座・和光や銀座・三越のある有名な「銀座四丁目」交差点のお隣(南東)の交差点です。現在は名称が変わっているよう。


そして昭和の東京を映した映像の常連である、有楽町駅前にあった「日本劇場」。「歩道はあちら」という標識が気になります。どういう状況なのでしょう。


映像の最後は、おそらく銀座近辺なのでしょう、レストランのサンプルケースが捉えられます。目玉焼きののった「ハンバーグステーキ」は150円。


「ハム入りマカロニグラタン」(?)も150円、「すき焼き」は200円なり。現代感覚では激安に思えてしまいますが、いつものように参考として国家公務員の初任給の昭和33年の大卒給料を見てみると9200円でした。ざっくりと物価は20分の1程度だったと考えると、200円は全然安くなく、逆にかなり高いことが分かります。



2回続けて東京・浅草を中心に紹介した映像をピックアップしましたが、前回は今から約100年前、今回は約60年前と40年の開きがあり、さらに関東大震災と東京大空襲を挟んでのものだったので、町の様子も大きく様変わりしていました。お時間が許せば合わせてご覧ください。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家) ‐ 服部淳の記事一覧

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【動画】「From Yokohama to Tokyo in 1958 横浜から東京まで」