【昭和30年】極貧だった奄美大島がたった2年で驚くほど激変していた

2016/5/27 20:59 服部淳 服部淳


どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、前回記事に引き続き、鹿児島県のYouTube公式チャンネル内の「なつかしの鹿児島」から奄美大島に関する映像をピックアップしました。
※映像はページ下部にあります。


前回の記事では、昭和28年に奄美大島が米軍統治下から日本に復帰した直後の「極貧」だったころの映像を取り上げましたが、今回の映像はその2年後となる昭和30年(1955年)制作の「復興する奄美大島」というタイトルのものです。

いったいどう復興していったのでしょう。ところどころで前回記事と比較し、2年間の変化も見ていきたいと思います。






まずは林業です。昭和28年当時は、山道を牛がのんびり引っ張って木材を運んでいましたが、昭和30年には林道が開かれ、ソリのようなものに積んで運んでいます。だいぶ効率が上がっているようです。

さらには、今まではまったくしてこなかった「造林(木を植え育てて森林をつくること)」も始められるようになったそう。


場所は移って農村です。家々は茅葺き屋根の、こちらは昭和28年となんら変化はないようです。


ソテツの実でしょうか、おばあさんが刃物で割っています。ナレーションいわく、奄美群島の人口の8割を占める農民は、昔ながらの素朴な生活を続けているとのこと。


畑道を歩いてくる女性たちが映し出されます。ナレーションは続けて「ヤブとしか見えない段畑、不完全な畑道」


「荒れ地のような畑、極めて生産力の低い農業経営です」


「毎年決まったように襲いかかる風水害の破壊力に気力を失ってしまったようにさえ思います」と、豹変したかのように農家を蔑みまくります。


と思いきや、「しかし最近は、農業指導員の努力でバナナの計画栽培が成功し…」と、苦言を呈していたのはこれまでの農業についてのようで、(著者が前回記事で指摘していたように)農業指導が始まっていたのだそうです。




こちらはサトウキビを運びこむ農家の人たち。


昭和28年の映像では、牛が引く力でサトウキビを搾取しているシーンもありましたが、機械化した立派な工場が各地に見られるようになったようです。


後ろに「農業協同組合」の看板が見えますが、組合による生産の指導や販売のサポートが効果を上げているようです。




水産業に関しては、黒潮の通り道である奄美近海では、カツオやマグロなど水産資源に恵まれているそうです。




それに加え、「近年始められた真珠の養殖も見事に成功」とナレーション。ただ調べてみると、奄美大島での真珠の養殖の歴史は古く、1910年(明治43年)に開始されています。しかしながら、太平洋戦争の影響で1943年(昭和18年)に中止。1951年(昭和26年)にGHQの依頼により再開されたのだそうです(参照記事)。

まあどうあれ、産業が一つ増えたことには変わりありません。


漁業については、まだ改善の余地ありと、水産指導船を導入したそうです。






昭和28年の映像で「戦前の1割5分にも満たない生産高」と紹介されていた大島紬も、昔の活況を取り戻しているようです。何よりも不振の原因となっていたのは、米軍統治下にあったため販路である日本本土が「外国」となっていたためだったようで、日本に復帰した後は、当然生産高は上向きますね。




紬業界でも組合主導で、品質の向上のための検査と、コスト引き下げのための合理化が進められていました。




このようにして、各産業が復興していくとともに、奄美大島の中心の名瀬市(現・奄美市名瀬)は賑わっていったそうです。2年前の「商品が高くて誰も買えない」状況とはだいぶ変わりました。


昭和28年当時はトラックの荷台に乗り込んでいるような状態だった公共バスも……




こんな立派な大型バスに取って代わっていました。「古仁屋」は奄美大島最南端域の中心地で、名瀬から現在の道路で約41kmほどの距離があります。


バラックが立ち並んでいた家並みも、


真新しい建造物が立ち並んでいるように見えます(同一の場所ではないとしても)。




そして、昭和28年の映像で「馬小屋同様のひどいもの」と酷評されていた学校の施設は、


立派な校舎ができていました。






校舎はボロボロで、教科書やノート、筆記用具が圧倒的に足りてない奄美の学校の惨状が日本全土に知れ渡ると、「惨めな学校、気の毒な子供たち」と、全国から学用品やオルガン、ピアノなどが寄せられてきたのだそうです。


このような校舎は、農村や漁村にも次々と建てられていったのだそうです。本当に日本に復帰できて良かった。








「今、復興は我らの手で」という合言葉のもとに、幹線道路の拡張や、水害に備えての河川の改修や護岸工事などの土木工事が各地で行われていきました。


奄美群島最大の港である名瀬港では浚渫工事(底面をさらい水深を深くすること)が進められ、大型船が着岸できる日も近いとナレーション。「この港の完成こそ、輝かしい大島の発展を約束するものなのです」と結んでいます。



なんとも素晴らしい復興劇を見てきましたが、いかがでしたか?もちろん、良いところばかりをピックアップしているという事情もあるでしょうが、昭和28年の貧しかった時代を見たあとならなおさら、スッとした気分になったのではないでしょうか。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)

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※参考文献
・奄美の奇跡 「祖国復帰」若者たちの無血革命/永田浩三(WAVE出版 2015)
・鹿児島県の近代史/原口泉 宮下満郎 向山勝貞(山川出版社 2015)

【動画】「復興する奄美大島」