【昭和20年代の沖縄】アメリカ支配下にあった沖縄の貴重映像

2016/3/4 22:30 服部淳 服部淳


どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回は戦後の沖縄を捉えた米軍撮影の映像を取り上げました。

一般公開されている昭和20年代の沖縄の映像というと、どうしても太平洋戦争で日米の最大規模の戦闘となった「沖縄戦」のものが中心となってしまいますが、この映像ではアメリカ統治下となった戦後の沖縄をメインに収めています。


映像元は「THE BIG PICTURE」というアジア地域で毎週放送されていたアメリカ軍のオフィシャル番組です。当時の米軍関係者に向けて制作された番組なので、現代の我々には特に必要のない内容も含みますので、興味深いところだけをかいつまんで紹介していきます。
※動画はページ下部にあります。






漁村や農家の様子を映しながら、沖縄の地理、生活、歴史について語られていきます(英語ナレーション)。映像の鮮明さなどから、米軍が戦後に撮影したものだと思われます。

1853年にペリー率いる米軍艦隊(黒船)が琉球(沖縄)にやって来たこと、1871年には日本の統治下に入ったこと(正しくは1872年)。そして、太平洋戦争での沖縄戦と歴史が駆け足で紹介されていきます。映像には戦闘の様子も収められていますが、ここでは割愛します。




時代は飛んで、映像は沖縄戦終了後の那覇を捉えています。壊滅状態です。


日本勧業銀行(現・みずほ銀行)那覇支店の建物。かろうじて残っている感じです。




那覇を離れても、沖縄本島のそこかしこに兵器の残骸や、弾丸などが無数に転がっていました。沖縄を統治した米軍がまずやるべきは、これらの除去でした。


また、米軍は沖縄をめぐる3つの環境に悩まされていたといいます。1つ目は「砂埃」。


2つ目は度々襲ってくる「台風」。こちらの画像は、台風直撃で米軍施設が破壊された様子のようです。


3つ目は「泥土」。1つ目と3つ目は共通したもののようですが。



そんな中、沖縄の立場を一転させる出来事が起こります。1949年(昭和24年)に中国共産党が中国本土を制圧、また、翌1950年には北朝鮮軍が韓国領内に侵攻、朝鮮戦争が勃発します。中国大陸にも近い沖縄は、一躍対共産主義勢力の拠点として、きわめて重要な役割を担うことになったのです。




新しい滑走路や道路、建物などの建設が急がれることとなりました。米軍エンジニアの指揮のもと、沖縄人たちも協力して新しい技術をどんどん身に付けていきます。


B29爆撃機が発着できるような長くて頑丈な滑走路がまず建設されます。


台風にも負けない頑丈な軍司令部も完成、


また、これまで沖縄になかった舗装道路の建設も始まり、


4本の1級道路と2本の2級道路ができあがりました。これら4年にわたる建設ラッシュにおいて、米国インディアナ州の州都、インディアナポリスを丸一つ作るのと同じ程度の労力が掛かったのだとナレーションは伝えています。米軍の当初の3つの悩みも、これで解消されたことでしょう。


舗装された道路で手信号による交通整理をする米兵。背後には「EBISU CAFE」や「西洋料理」といった看板も見えます。


ここからは、沖縄がいかに近代化したかを伝える内容となっていきます。「工場や新しい発電所もできました。有名な『The Teahouse of the August Moon』に登場するようなレストラン(上の画像)だってあります」とナレーション。

「The Teahouse of the August Moon」とは、戦後の沖縄を舞台としたアメリカ映画で1956年(昭和31年)に公開。邦題は「八月十五夜の茶屋」、ヒロイン役を京マチ子さんが務めています。恐らくこの「THE BIG PICTURE」フィルムは、この映画公開後に放映されたのではないでしょうか。


こちらは映画の看板のようです。左の「総天然色」で「立体映画」の触れ込みは1953年(昭和28年)7月14日公開の「タイコンデロガの砦」、右は1951年(昭和26年)12月27日公開の「リオ・グランデの砦」です。


「地元新聞社もでき」、と映る建物は「琉球新報」のようです。


こちらはカメラ前を通りすぎる「コカコーラ」のトラック。米国統治下なので右側通行です。


地元の人たちの商店街が映ります。


こちらも頭に大きな籠を載せて歩く女性が。「那覇まちのたね通信」の写真と照らし合わせると、那覇の平和通り三叉路附近ではないでしょうか。


米兵たちが入っていくのは、「Roger's」というデパート。同店HPによると「1954年(昭和29年)7月4日、沖縄市(旧コザ市)にて、国際感覚に溢れた世界の特選品専門デパートを開店、琉球政府より特別免許を得、主に在沖米軍及びその家族を対象とした営業を開始する」とあります。


ナレーションによると、アメリカ本土にあるデパートと品ぞろえは遜色ないとのこと。


ここからは、いろいろと看板が取り上げられているので、並べてみます。


「みどりや畳店」に、


「PAWN SHOP(しちや)」。どちらかというと、米兵相手に商売をしていたのでしょうか(日本語表記が小さい)。




「胡屋看板店」では、ちょうど自前の英語看板を作成中のようです。


「諸見電気商会」は、英語表記の「BATTLY. SHOP」がいろいろ惜しいです。→BATTERY


看板の最後は「金城自動車内張所」。英語表記があるかないかで、誰をターゲットにしている店なのか分かりやすいですね。




学校が映し出され、沖縄の子供たちの教育について話が始まります。「我々は沖縄はいずれ独立するものだと信じている。その際、沖縄人たちは今より聡明である必要があり、そのためには引き続き質の高い学校をたくさん作っていかなくてはならない」、とナレーションは語ります。沖縄はやがて日本に復帰するのではなく、独立するという考え方がされていたのですね。


最後はペリーが沖縄に到着してから100周年を祝ったパレードの模様です。1953年(昭和28年)5月のことのようです。




ナレーションは、「星条旗と沖縄の旗が一緒に振られています」と言っていますが、日の丸のように見えなくもないですね。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家) ‐ 服部淳の記事一覧



【動画】「Big Picture: Okinawa: Keystone of the Pacific」


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