「足音~Be Strong」いまという時代は──

2014/12/2 20:00 なかのひとよ なかのひとよ

偶然タイムラインで見かけたURLをクリックするとそこには羅列されたことばがあり、羅列されたことばの向こう側からはいつも誰かが「あなた」に向けてメッセージを発している。彼、あるいは彼女の正体は誰だろう。



そのメッセージが正しいか否かはさておき、すべての情報はあなたに観察されることではじめてあなたの世界にインストールされる。逆をいえば、あなたが読まなかったすべての記事はあなたの世界に存在しないも同然だ。それは図書館に並ぶ開いたことのない書物がそうであるように、立ったことのない月の裏側がそうであるように。(死後の世界、宇宙の果て、深海の底、ピラミッドの謎……だからこそ未知なるものはつねに、あなたに想像する余地を与えてくれる。)



出会わなかったもの・選択しなかったものは、あなたの世界を広げる可能性を秘めながらもまだあなたの世界に存在していないもの。これは素粒子の世界で起こる「観察者効果」や、フリードリヒ・ニーチェのことば「深淵を覗きこむ者は、深淵からものぞきこまれている」とも共通しているかもしれない。





















例えばここに突然現れた「あ」という文字もまた、あなたがスクロールすることではじめてあなたの世界に出現しました。あなたはこれまでに同じフォントで記された「あ」を数えきれぬほど見てきたかもしれませんが、いまこの瞬間、この場所で目撃した「あ」とは初対面に違いありません。そしてこの閲覧したデータを履歴から削除することはできても、閲覧したという事実だけは永久にあなたの歴史から削除することはできやしないのです。



という具合に、あなたは日々偶然と選択によって得た情報でちょっとずつ世界を広げていきます。(いまこの瞬間にも、文字を左から右へ追いかけながら。)

そして今日もまたこの記事のURLをクリックすることで、あなたは私という情報を観察し、そして私を誕生させた。あなたがクリックしてくれたおかげで私はいまここに、あなたの世界に存在しているのです。見つけてくれてありがとう。



さて、このことばの主は誰だろう。私の正体は誰だろう。もしそれがあなたの胸を打ち鳴らしたなら、あなたのアンテナに反応したなら、それはひょっとしたらあなたがどこかに置き去りにしてきたことばかもしれない。外の世界からディスプレイの鏡越しに映る、中にいるあなた自身なのかもしれない。

あなたが数ある情報から選択したように、あなたもまた数ある情報から選択された。ひとつだけいえることは、こうしてバーチャルにしか存在しない仮想人格の私は、いつだって外ではなく中の人=ナカノヒトヨというわけです。(なんちゃって。)



あなたは日々避難所へ逃げこむように、暮らしの舞台である三次元の町から、ディスプレイ越しの二次元の空間へともぐりこむ。そして指先でタイムラインを下へ下へとスクロールし、数分前、数時間前、数日前の過去へとさかのぼる。それはあたかも深海へダイビングするかのように。

そしてバイラルメディアの出現が意味する通り、情報はつねに(ときに作者を置き去りにしてでも)広がりたがる性質を持っているから、あなたは身体から離れて拡散され続けることばを追いかけ回しては、欠け続けるなにかの穴埋めに必死だ。しかも「質」ではなく「量」で。

やがて情報量と消化の比率が合わなくなり、身体(脳)のハードウェアがフリーズを起こす手前に、ふとこんなことを思う。



   *   



いまという時代は──バカッターという言葉があるけれど、あれは炎上してるひとりより炎上させているひとたちのほうがよほどバカッターよね。いい大人が束になって、ただ無知だったひとりをひたすらに追いこんで。悲しい気持ちになるわ。そんなくだらない記事をコミュニケーションのネタにして、それでご飯を食べている連中までいるなんて。人生を考え直したほうがいい。って正義面していってみたけれど、本当のことをいうと彼らの気持ちも少しはわかる気がする。誰かの批判って、癖になるとやめられないのよね。個性やユーモアを交えて上手い具合に批判できた日には、失うものはないうえに褒められるわけだし。って、これだってある種の批判に対する批判なわけで、じゃあ結局私も彼らと変わりないのかもしれない、というふうに無限のループに吸いこまれていって。だからやっぱり、相手にしないほうがよかったのね。後悔だわ。

とはいえいまという時代は──嫌でも目につくものが多すぎる。そしてそれは広告的には最強。挑発的なポージングに、下品な見出し。どんどんどんどんエスカレートしていって、それにともなって考えないひとたちの価値観もどんどんどんどん崩壊していって。ゆえにピュアな美しさも引き立つわけだけど、極端に短いミニスカートやはずれかけたカツラのおじさんは、美しさとは無関係に多くのひとが注目するという現実。スマートフォンを覗けばバナー広告、ばかにしたようなタイトルの記事。目をあげればド派手な看板、中吊り広告、ネオンサイン。これを買え、私を知れ、洗脳されろ、もっともっともっと。そんな人為的な情報と反比例して、夜空に星はちっとも見えやない。天然の植物も見当たりやしない。綺麗な川もどこにもありゃしない。

いまという時代は──自分に都合のいいように情報を変換してその周辺のクラスタに見せびらかして、それで満たされて結束はまた深まる。そして世界は狭くなる。リア充を批判しながら私も充実したい。金持ちを叩きながら私も金がほしい。権力の足を引っ張りながら私も権力を得たい。バカな大人をバカにしてバカになり、そこで進化は止まる。死にたい。うそ、死ねなやしない。しかし滅びることだけは確かだわ。

いまという時代は──リビングルームの一台のパソコンはジョブズがiPhoneを生んで以降個人の手のひらへ、分厚いものは薄くなり、大きなものは小さくなり、形あるものはどんどん形がなくなっていく。やがてイノベーションはあなたの皮膚を越えて体内へ、コンプレックスや承認欲求、行動パターンや目に見えない繋がりが次々と可視化され、暴かれていく。ついにはバーチャルとリアル、自分と他人、かつて数学者は哲学者でもあったように科学と思想の境界線もまた曖昧にして、答え合わせが行われていく。

ひょっとしたらあなたは、再び大きなひとつのなにかに回帰したいのかもしれない。




   *   



あれ、これは私の気持ちじゃなかった。誰かの気持ちだった。情報の海に溺れて、また集団の生み出す危険なミームを植えつけられるところだった。先ほどあげたニーチェのことばの前に、「怪物と戦うものは自らも怪物にならぬよう気をつけなければならない」ということばがある。怪物を情報に置き換えたらどうだろう。あなた自身が情報そのものになっていやしないか。





足音 ~Be Strong


久しぶりにテレビをつけると、そこには偶然Mr.Childrenのメンバーが歩きながら楽器を演奏しているCMが流れていました。背後には廃墟のような建物、戦いのあとで疲れきった表情で、汚れきった格好で、しかし歩くことをやめない彼らがそこにはいました。

ここ最近は特に売上枚数やランキングを気にして音楽を聞くことはなくなったけれど、あとで調べた情報によると、1994年に発売された「Innocent World」以降30作連続首位をキープしてきたMr.Childrenのシングルは、今作で記録が途絶えてしまったらしい。

だったらいまの日本の音楽業界についてDisり記事でも書いてやろうか、なんてことも思ったけれど、そんなことは1999年に発売されたシングル「光の射す方へ」で、「デキレースでもって勝敗がついたって、拍手を送るべきウィナーは存在しない」と彼ら自身が歌っている。私が語るべきことは何一つありません。


この楽曲のなかで、彼らはこう歌っています。


「夢みてた未来はそれほど離れちゃいない」
「今という時代はそれほど悪くはない」
「すべてのことをまっすぐに受け止めたい」


そして歩き続けます。ぼろぼろになっても、性懲りもなく希望を唱えながら。そして偶然か必然か、その足音を私は聞いてしまった。




あなたがもっと子どもだったころから、あなたがまだケータイすら持っていなかったころから、いまも変わらずに同じ一つのことをやり続けているひとがいる。どうやら最近はCDが売れなくなったみたいだけど、変わらずにCDを売り続けているひとがいる。



時代を象徴する作品は、あなた自身の投影かもしれない。彼らが強く鳴らし続ける足音は、失いつつあるものを蘇らせるためのメッセージなのかもしれない。



あなたにとっていまという時代はどんな時代でしょう?この偶然をきっかけに、一度考えてみてはいかがでしょうか。



私の目の前に偶然流れたこの楽曲と、あなたの目の前に偶然現れたこの駄文。そのミームがあなたのアンテナに触れたのなら、どんなにボロボロになっても、ともに「それほど悪くはない」と希望を歌い続けようではないか。それは偶然ではなく、ひょっとしたら未来があなたのために用意した必然なのかもしれないのだから。



私もまた、歩くことをやめずにいようと思います。彼らに習い、足音をより強く打ち鳴らしながら。



ナカノヒトヨ